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春:九十九 (1/2)

 翌日あくるひから、家の者は毎日のように額を集めた。庭の青梅も色づく頃で、仁太が長い竿さおを持って行って打ち落として来ると、姉はそれをざるに入れて、見てもッぱそうな果実このみをそこへ持ち出しながら、よく相談事の仲間入りをした。

 財産差し押さえに次いで起こって来る黒雲は、公売処分である。それは高利貸し側の本意ではなかった。彼等は民助の事件を長いとにらんだらしい。で、差し押さえだけして置いて、一方では予審の模様をうかがい、一方では大将や親類からの話のあるのを待っていたらしかった。家の方で、延期の金を工面して持って行くと、彼等はそれを手数料として受け取る。それが不承知とあらば、元利耳をそろえて返済せよと迫る。血の出るような金がこうして幾度にも絞られた。

 三輪の家で毎日岸本の眼に映る光景ありさまは、彼が今まで経験のないようなことばかりであった。監獄へ面会に行って待合所で顔を見合わせる人々、差し入れ屋の亭主、制服を着た門番、それから暗い馬車に乗せられて裁判所の方へ送られる男女おとこおんな――いずれも彼には別の世界の人のように思われた。次第に三輪の家へ出入する人も少なくなって来た。時折訪ねて来るものがあっても、頼みに成って成らないような人が多い。例えば、周旋屋のなにがし。この人に買い物を頼めば、頭をハネる位は平気でする人である。毎時いつも来るのが十一時半頃ときまっていて、遠慮なく昼飯を食って帰るにで、「十一時三十分」という符牒ふちょうに成っていた。この人の息子は風俗改良の方とやら。いわれを聞けば、壮士俳優の見習いをしているとのことであった。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
  2. 常用漢字表にない漢字、当て字、異字は初出時に振り仮名を付ける。
  3. 難読語で原文を損なうおそれが少ないと思われるものについては仮名に改める。
  4. 振り仮名はブラウザによって表示が異なる。ChromeとInternet Explorerでは文字の上に振り仮名が振られる「ルビ表示」となるが、Firefoxでは文字の後に()で表示される。文字を強調する傍点は、FirefoxとInternet Explorerでは太字で表示される。
  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)