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春:九十八 (1/2)

 隣家となりの差配で、風呂を立てたから入りに来いと言われて、岸本は汗を流しに行った。帰って見ると、母親は洋燈ランプの下に左の足を投げ出しながら、しきりときゅうをすえている。毎日お百度を踏む為であろう、母親の足には水気を持って、押せば指の跡が残るほどに腫れている。

あつ

 と母親は顔をしかめて、燃え尽きようとする火を打った。新規なもぐさたその跡に盛られる。やがて線香の火が移る。こうして左の足がいくらか軽くなった頃、更に右の足を投げ出した。

 この母親が子の為にお百度を踏むのは、今度ばかりではなかったのである。彼女は郷里くにに居る頃、岸本の為にも踏んだのである。彼が黙って長旅に出たということは、何時いつ伝わるともなく母親の耳に入ったのであった。どれ程彼女が心を傷めたか、どれ程が子の為に無事を祈ったかということは、その晩岸本も聞いて始めて知った。

 母親は足を押さえながら、「捨、俺はお前に聞いて見たいことがある」

「母親さん、何ですか」と岸本は言った。

 その時母親の傍らで蚊を追っていた姉が談話はなしを引き取った。「阿母おっかさんはあの法衣ころものことを言っているんですよ。今日の差し押さえで、箪笥たんすの中から出て来たもんですから――」

「へえ、法衣も差し押さえを食ったんですか」と岸本は頭をかかえた。

「いつか一度あのいわれを聞いて見たい」

 こう母親は真面目に言い出したが、岸本は笑に紛らして了った。九歳ここのつに成る民助の娘――愛子は最早姉の傍らへ来て眠った。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)