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春:九十五 (1/2)

 三輪の家はもと金座のなにがしが住居すまいで、今で言う御用商人の建てて贈ったものとやら。この履歴のある広い邸宅やしきは、貸し金の抵当として石町こくちょうの大将の手に入ったものであるが、空き屋にして置いては荒れるばかりだし、庭の手入れも届かないし、というところから買い手の付くまで民助が借りて住んだのである。多忙いそがしい身で民助がこういう辺鄙へんぴな場所をえらんだというは、旦那への義理と、今一つは家賃を出さずに住まわれた為とで、そのかわり手車でも置かなければ商用の弁じないような位置にあった。ここを住居らしくする為には、家相応な道具も備えなければならなかった。

 岸本の母や姉は簡易な田舎生活に慣れて来た人達である。母が郷里くにから出て来たばかりの時に、「お秋」と嫁の名を言って、「これは皆なうそだぞい、こんなに立派に成ったと思って、油断すると宛てが違うよ」と女同志で話したことが有った。その時民助も、母の伴をして来た男に向かって、「これは虚でサ――虚ですけれど、この虚をほんとうにしようというのが私の意気込みです」と言ったことも有る。しかし、奉公人や出入りの者に向かっては、それでは通らないような場合が多かった。母や姉は、はじめから不安を感じていたのである。

 民助が居なくなる、間もなく山田という親類の男が来た。弁護士との交渉、負債の整理なぞは、主にこの人と、岸本には三番目の兄にあたる幸平との二人にまかせてあった。岸本はまだ年も若いし、経験は少し、それに不慣れのことであるから、自分の力に出来るだけの手伝いでもして、成行きをているより外に手出しのしようも無いのであった。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)