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春:九十四 (1/2)

「そうかなあ、細君にもよく解らないかなあ」と岸本は元数寄屋町の家を出て、菅と一緒に歩きながら言った。

「何故青木君が亡くなったと言われたら、君だっても困るだろう」と菅が言う。

「僕にも解らない」

「あまり接近し過ぎているものには、反ってよく解らないんじゃないか」

「さあ、そういうところが有るかも知れないね」と言って、岸本は考えて、「青木君が国府津で書いた文章があったろう、ホラ――あれなぞを読んだ時に、僕はそう思ったネ、青木君は非常にひろい処を歩いてるなあッて。ああいう処まで出て来ているんなら、死ななくってもさそうに思うんだ」

 こんな談話はなしをして二人は三十間堀の方へ歩いて行った。菅は青木と一緒にその町々を歩いた時のことを思い出した。その時の青木が言うには、見給え、ペンキ塗りの家もあれば、煉瓦造れんがづくりもある、昔風の日本造りもある。今の時代は物質的の革命でその精神を奪われつつある、外部の刺激に動かされた文明である、革命ではなくて移動である、こう亡くなった友達の言ったことを思い出して、菅はそれを岸本に話して聞かせた。

「そうだ、革命ではなくて、移動だ」

 と岸本も繰り返して見た。二人は三原橋のたもとに眺め佇立たたずんで、やがてそこで別れた。

 青木が奮闘して倒れたということは、連中に取って大きな打撃であった。友達は皆考えた。しかし、仲間中から一人の戦死者を出したということが、反って深い刺激に成って、各自めいめい志す方へ突き進もうとしたのであった。市川、菅、足立、岡見、福富、それから栗田なぞの書いたものは雑誌をにぎわした。

表記等について

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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)