» 公開

春:八十七 (1/2)

 棺は黒い布で包んで、青い十字架を附け、その上に牡丹ぼたんの花の飾りが載せてあった。祈祷の後、牧師は布を取り除けて、棺のふたを開けた。人々は最後の別離わかれを告げる為に、その傍へ行った。して、順を追って屋外そとの方へ繰り出した。

 市川、菅、岸本の三人も、しまいに棺の側に立った。射し入る強い日の光に照らされた青木の死に顔には、最早血の色が無かった。眼は閉じ、まぶたは重く垂れて、亡くなった後までも未だこの人のを瞑想するかのように見える。感覚の無い額、あおざめた頬、それから堅く突き出したあごのあたりには、何処となく暗い死の影を宿している。それを見ると、腐れ行く肉の可傷いたましさを思わせる。やがて、その上に蓋をして、隅々は釘で打ち着けられた。こうして人足にかつがれて、青木の遺骸なきがら屋外そとへ運ばれる頃は、母親も、親類の女達も泣いて見送った。

 会葬者の群は小径について飯倉の通りへ出た。男は徒歩、女は多く車であった。中には横浜から見送りの為に出掛けて来た人もあった。一行は赤羽橋を渡って三田の通りに出、三丁目の角から聖坂ひじりざかの方へ上らずに右へとって、あれから四丁目を折れ曲がった。豊岡町、松坂町の裏通は、やがて白金へ通う樹木の多い道路みちである。これはやや迂回した道順ではあったが、一番上り下りが少く白金台の方へ行くことが出来たからで。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
  2. 常用漢字表にない漢字、当て字、異字は初出時に振り仮名を付ける。
  3. 難読語で原文を損なうおそれが少ないと思われるものについては仮名に改める。
  4. 振り仮名はブラウザによって表示が異なる。ChromeとInternet Explorerでは文字の上に振り仮名が振られる「ルビ表示」となるが、Firefoxでは文字の後に()で表示される。文字を強調する傍点は、FirefoxとInternet Explorerでは太字で表示される。
  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

この作品が収録されている電子書籍を読む

春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)