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春:八十五 (1/2)

「まあ、よく来て下さいました」と操は庭のところに立って、菅、岸本の二人を嬉しそうに迎えた。

「あの御葉書でしたから、拝見する、直に二人で出掛けて来たんです」こう菅が気の毒そうに言った。

 岸本も帽子を取って挨拶あいさつする。

「到頭、宅も亡くなりましたよ」と操は嘆息した。疲労つかれ悲哀かなしみとで、彼女の顔色は蒼ざめて見えた。

 そこは、土地も高燥、樹木も鬱蒼うっそうとしていて、吾性にかなうと青木が言った場所である。二人の友達は、やがて操に導かれて、うちなかへ入った。閑静な、こぢんまりとした住居すまいで、台所の方へ寄った一部屋は別に後から建て増しでもしたものらしい。そこだけ一段低く成っている。そこには人が出たり入ったりしている。操は夫の友達の顔を眺めながら、あれ程骨を折って看護した甲斐かいもなかったという残念な面持ちで、前の夜のことを話した。白昼ひるまのように明るかった月の光の静けさは、青木の魂を誘ったらしい。彼は生の荒廃に堪えられなかったらしい。庭の青葉のかげで、彼はくびれて死んだ。

余程よっぽど私も気をつけていたんですけれど、何時いつの間にか抜け出して行って了ったんです――」と操は嘆息した。

「昨夜は好い月だったからネ」と岸本も思い出したように。

「しかし」と操は気を取り直して、「よくああいう場合には、見っともないようなことが有るって言いますけれど、そんなことは少許すこしも有りませんでしたよ――それは奇麗な最後でしたよ」

 菅は、さもあってであろう、と言ったような眼付きをして点頭うなずいた。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)