» 公開

春:八十二 (1/2)

「岸本君、君は森下という男を知ってましょう」と市川が膝をすすめて言い出した。

「知りませんが、うわさはよく聞きます」こう岸本は答えた。「僕が赤城に下宿している時分、あの先生の兄さんとは一緒に成ったこともある」

「森下と言えば、余程評判の人でしたあね。なにしろ、病院へ入ったということを聞くと、盛岡や伝馬町が見舞いに駆け付ける位ですから。あの先生も、一度退院して、また近頃入ったんだそうです。それに就いて種々いろいろ奇談がある――」

「奇談?」

「まあ、伝馬町が見舞いに行ったと思いたまえ。するとあの先生が病床に横たわりながら、いわくサ、岡見さん、貴方あなたは死ぬほど愛することが出来ますかッて――」市川は嘲るような声を出して笑った。「箆棒べらぼうめ、そんなことを聞くやつがあるもんか」と彼の眼が言うように見えた。

「伝馬町は何と答えたろう」と岸本も笑いながら聞いて見る。

「そこまでは知らないがね」と言って、市川は真面目に成って、「それからまた、こういう話がある。あの先生が盛岡の手を執って、私の愛を受けてくれませんかと言ったんだそうです。その時盛岡が君のことを言って、実は私にはこういう人が有ります、貴方の心にしたがうことは出来ません、それだけは何卒どうか思いとまって下さいッて、奇麗に打ち明けて断ったとか。ははははは」

 空虚な鯉幟こいのぼりの風に翻る音が屋根の上の方で聞こえた。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
  2. 常用漢字表にない漢字、当て字、異字は初出時に振り仮名を付ける。
  3. 難読語で原文を損なうおそれが少ないと思われるものについては仮名に改める。
  4. 振り仮名はブラウザによって表示が異なる。ChromeとInternet Explorerでは文字の上に振り仮名が振られる「ルビ表示」となるが、Firefoxでは文字の後に()で表示される。文字を強調する傍点は、FirefoxとInternet Explorerでは太字で表示される。
  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

この作品が収録されている電子書籍を読む

春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)