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春:八十 (1/2)

 青葉をところどころに見る下町の瓦屋根の間に、鯉幟こいのぼりが立つように成ったのは、間もなくであった。

 岸本の叔父の家でも、一人息子の弘が十一歳を祝う為に、竿さおを庭の隅のところに立てた。うろこいた魚の形は五月の空に高く揚げられた。

 節句の前の日、岸本は本船町の家の方に市川を訪ねた。その辺は紺暖簾こんのれんにおいのするようなところで、蔵造りの問屋が軒を並べて、店頭みせさきで荷造りをするのと、荷車や荷馬車が往来を通るのとで、多忙いそがしく混雑ごちゃごちゃした眺めの町である。酒、砂糖、海苔のり乾魚ひうおその他海産物の類いが絶えずこの街を運搬されている。薬の箪笥たんすを担いだ商人あきんどもその間を通る。その箪笥の環の音を聞くと、最早もう定斎じょうさいを売りに来る季節に成ったかということを思わせる。岸本は小僧に案内されて、薬種を置き並べた店の側を通った。市川の母親にも逢い、姉にも逢い、いくつか御辞儀をして、路地を突き当たったところで若い友達の出て迎えるのに逢った。

 市川の部屋は母屋から離れた二階で、町の響も騒然さわがしく聞こえないようなところに在った。時々彼は池の端から帰って来る。而して、この二階で物を書くことも有る。その日もひとりで横に成って、ハタハタと鳴る五月幟のぼりの音などを聞きながら、静かに友達のことを考えたり、自分のことを考えたり、それから連中が事業しごとのことを考えたりして、何となく寂しい心地こころもちでいるところであった。

表記等について

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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)