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春:七十九 (1/2)

 後の方の壁に近く連中は集まった。菅は来賓の中に、若白髪の多い、面長な、洋服姿の人を見つけて、

「千春さんも来てるネ」

 と岸本に私語ささやいた。岸本は菅の方へ顔を寄せて、点頭うなずいた。

 若い人達が読んだ文章の中で、殊に来賓の注意を引いたのがあったが、その娘が紫の矢絣やがすりを着て、帯を立て矢の字に結んだところは、何となく伝馬町の涼子を思い出せた。小作りで、才気のあふれているようなところも、その人らしかった。四人並んで唱歌を歌った娘の一人は勝子の妹である。送別のことばや歌が始まると、そこここで鼻をかむ、声をむ、送られる方の生徒はいずれも頭を揚げ得なかった。校長の関根は、いかにもこういうところの教育家らしい、謹厳な風采の人で、柔和なうちにも威のある眼付きをして、懇々と勧告も辞を述べた。勝子の答辞と、琴の合奏が済んで、それから余興に移った。

 茶菓を配る頃には来賓もそろそろ動き始めた。楽しく笑う声、私語する声が彼処あそこにも此処ここにも起こった。接待掛の娘はその間を往ったり来たりした。市川は晴れのむしろに胸を騒がせたという風で、もう静止じっとしていられなかった。彼は美しい幻影まぼろし眼前めのまえ喚起よびおこすようにして、低い声で、しかも力を入れて、

「オオ、ルシラ、マデライン、リリアン、マアガレット」

 こんな風に、女の名を呼んで見て、笑った。清之助は市川の笑ったのを笑った。菅は何か思い出したという風で、考え深く眺め入っていった。恐らく、こうして集まって来ていても、箱根に勝る程の人は見当たらなかったであろう。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)