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春:七十七 (1/2)

 その日は過ぎ去った事をいろいろ思い出させるような日であった。牛込の見附みつけから富士見町にいって、あの土手の上へ登ると、古い松のの間には一筋の細道があって、その頃はそこを歩いてもかまわないようなことに成っていた。そこから樹木の多い市ヶ谷の町々が見渡される。堀に添う一帯の平地も見える。土手は低い岡続きのように、ところどころひろがって平地たいらに成ったかと思うと、またたかく盛り上がるという風で、道路みちへ落ちたところは面白い小さな傾斜を成している。日のすところは草が青々として見える。岸本が麹町の学校へ通った頃は、一時赤城あかぎに下宿していて、この土手を往ったり来たりしたのであった。

 土手の尽きたところから、帯坂を上る。静かな陰の多い坂で、椿の花なぞが落ちている。片側には古い町がある。そこは岸本が気に入った坂で必ず通ることにしていた道路であった。

 学校へ近づくにしたがって、混雑ごちゃごちゃした記憶が岸本の胸に湧いて来た。門を入ると、庭がある。入り口の左右には講堂や応接間がある。入り口のところで岸本は頬のあかい二三の笑顔に出逢であった。応接間と教員室との間には、廊下があって、寄宿舎から講堂へ通うように成っている。式の始まるには未だ早かったが、準備のため多忙いそがしそうな人々がその廊下を往ったり来たりしていた。そこでも岸本は種々いろいろな笑顔に出逢った。面長で、柔和な考深い眼付きをして、すこしこう世ばなれした男の笑顔にも出逢った。頭の禿げた、人の好さそうな、笑わないうちから最早もうニコニコしているような老人としよりの笑顔にも出逢った。それから見覚えのある若い人の笑顔にはいくつとなく出逢った。

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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)