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春:七十六 (1/2)

 岸本の母や姉は最早三輪みのわの方で、兄の民助と一緒に暮らしていたが、岸本はまだ恩人の家にとどまって朝晩の手伝いをしていた。その日も、彼は大川端の方へ帰って、自分の部屋のようにしていた茶の間に籠もって、菅から受け取ったものを開けて見た。

 それはこの一月頃から花の時節まで、およそ四カ月ばかりの間に、勝子が書き溜めた日記体の手紙であった。あるところは一週間も間を置いて書き、あるところは二三日続けて書きという風で、その日その日に思ったことが順序もなく並べてある。例の池の端で邂逅めぐりあった前後のことが殊にくわしく出ている。岸本はず大体に目を通して、何故なぜ勝子がこんなものを送って寄こしたかということを考えて見た。どういう朝晩を勝子が麹町の姉の家に送っているか、どういう畏怖おそれ悲哀かなしみが彼女の胸の中をったり来たりしているか、それはこの手紙のあつまりでほぼ知ることが出来た。

 更に岸本は一日ずつ精しく読んで見た。彼と勝子とは、丁度同い年齢どしで、書籍ほんを読むことだけは彼が教えた方でも、心の持ち方なぞは勝子の方がずっと姉さんらしかった。この手紙で、彼はかえって勝子から教えられた。そう焦ったり、騒いだりして、一途いちずに思い詰めるばかりが、男女のなさけとは言われまい。物のあわれは、まだ他にある。何故そう逆上のぼせて了うのだろう、何故そう無暗むやみなことを考えるのだろう。すこしは自分の心情こころもちも知って貰いたい―こう、姉が弟に教えるように書いてある。それが日々の女らしい感想を通して、それとなく暗示するような風に書いてある。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
  2. 常用漢字表にない漢字、当て字、異字は初出時に振り仮名を付ける。
  3. 難読語で原文を損なうおそれが少ないと思われるものについては仮名に改める。
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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)