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春:七十三 (1/2)

 菅一人の時ですら、池の端というものは連中が会合の場所のようであったが、まして市川が来て机を並べたので、いよいよこの下宿の方へ友達仲間の足が向き易く成った。家婦かみさんという人は客に向かって御世辞一つ言うじゃないし、使っている下婢おんなだってもそう気が利く方ではなし、それでいてどこかにウマミのある、居心地の好い、気楽な宿であった。それに一部屋全く別に成っていたから、玄関から直に通ることが出来て、出入りにも自由である。荒れてはいたが庭の樹木で囲繞とりまかれたということと、もともと下宿に出来た家ではないということが、この部屋を閑静しずか快適こころよく思わせた。

 市川が画かせたシェレイの画像も額に入って来て、新たにこの部屋を飾った。すこし大き過ぎた、と彼が言った。これは床の間の壁に立て掛けるようにしてある。長く垂れ下がった髪や、すこしこうかしげた首や、それから若々しい眼付きなぞが、木炭で粗く表れている。この画像の前で、連中は盛んに文芸復興期の話などをした。一人で彫刻もやれば、絵画もやる、詩も作る、おまけに建築の設計もすると言ったような、諸芸も通じて力溢れた巨匠が続出した時代の話に成ると、連中はもう我を忘れて、眉を揚げたり、腕まくりをしたりした。ダンテ、アンゼロ、または美少年ラファエルの名がよく繰り返したことなどもよく詮索された。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
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  3. 難読語で原文を損なうおそれが少ないと思われるものについては仮名に改める。
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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)