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春:七十二 (1/2)

 岸本はひとり菅の部屋にとどまった。その日の談話はなしは、後で考えると実に茫然ぼんやりするようなことばかり。これと言って覚えて置こうと思う言葉も交換とりかわさなかった。ただ、二人、物も言わずにいた時の静けさは、勝子が帰って行った後でも、まだ部屋の内に残っている。


"Your hands lie open in the long fresh grass,-
The finger-points look through like rosy blooms:
Your eyes smile peace. The pasture gleams and glooms
'Neath billowing skies that scatter and amass.
All round our nest, far as the eye can pass,
Are golden kingcup-fields with silver edge
Where the cow-parsley skirts the hawthorn-hedge.
'Tis visible silence, still as the hour-glass.
Deep in the sun-searched growths the dragon-fly
Hangs like a blue thread loosened drom the sky:-
So this wing'd hour is dropt to us from above.
Oh! clasp we to our hearts, for deathless dower,
This close-companioned inartculate hour
When twofold silence was the song of love."

右訳歌

「緑の草の中にしもかいなを君がげやれば、
を指のさきのほのすきてあからむ花とまがふかな、
さても微笑ほほえむきやさまみや。散りては更に寄せなる
雲の波だつ空の下に照りては陰る牧の原。
二人巣籠すごもるこのほとり眼路めじのかぎりはおしなべて
黄金こがねの花の毛莨きんぼうげ、野末のすじ白銀しろがねに、
いぬぜり生ふる山査子さんざしの垣根の端に連なりぬ。
げに静けさの眼にも見えて、漏刻のごとしめやかに。

日影も忍ぶ草がくれ、蜻蛉あきつはひとりみ空より
解けにしあいの一すぢの糸かとばかりかかりたる、
「時」のつばさもさながらに二人の上に休らひぬ。
ああ、うち寄せむ、胸と胸、これや変らぬ珍宝うづたから
うまちぎりこまやかにたとしへもなきこのきざみ
二重ふたえに合へる静けさぞ君と我との愛の歌」

(蒲原有明氏訳)

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)