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春:七十一 (1/2)

 山のことで破れてからの菅は、一層深く勝子の心情を憐れんで、こうして再び岸本に会う機会を作ってくれた。自分の部屋までも明けて貸してくれた。そこまで事を運んだのは一切彼のなさけである。

 岸本は出て迎えた。勝子は導かれて菅の部屋へ通った。岸本が八戸へ行くと言って、木挽町こびきちょうの二階で二人初めて会った時に比べて見ると、岸本の方でも種々いろいろなところを通り越して来ているし、勝子の方でもあの時の自分ではないように思っている。二人は不思議な顔を合わせた。こうして再び邂逅めぐりあうということすら、既にもう岸本の身に取っては不思議に思われたのである。

 岸本の髪の毛は最早以前の通りに延びて、可傷いたましい記憶をおおうかのように見えた。勝子を見て、ず彼の胸に浮かんだは、最早これから将来さきこんな風にして話す機会は有るまいということである。一度って顔を見るというだけに、彼はどれほどの悲しい日を通り越して来たろう。

「明日のことは解りません」こんな風に岸本は言い出した。「まあ、大に話そうじゃ有りませんか」

 勝子は挨拶あいさつに困った。「そう貴方のようにおっしゃったッても――」

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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)