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春:六十七 (1/1)

 二月が来た。麹町こうじまち上二番町より五味坂の方へ連接つづいている道路みちにも草の芽を見るように成った。そこは浅い谷間たにあいのような地勢で、別荘風の大きな建築物たてものと樹木の多い庭園にわとの挟まれたような位置にある。桜、辛夷こぶしなどのこずえはその谷間を飾ろうとして待っているかのように見える。往来の土の上には静かな影がある。ポッと日のあたったところもある。通行する人はすくない。二十二三になる束髪に結った若い人が、肩掛けに身を包んで、草の芽を踏みながら彷徨さまよっていた。

 その頃の若い人が用いた肩掛けは多く毛糸で編んで、三角に畳んで掛けたものである。この人はねずみ色のを掛けて、すこしこう気取ったような風をして、あちこちあちこちと歩いた。別に何処を指して行くでもなく、と言って人を待つという風でもなかった。ただただ青いものを踏んで彷徨っているとしか見えなかった。

 この道路の尽きたところにある坂を富士見町の方から下りて来て、やがて三丁目の谷へ下りずに曲がった女がある。矢張り同じように髪を束ねて、肩掛けは鼠色の濃いのをまとっている。年齢としはすこしうえらしい。

「お勝さん」

 こう年長としうえの方から声を掛けた。

「あら、おいそさん、何処へ行ってらしッて」

一寸ちょっと通りまで買い物に行って来たの」

 と言って微笑ほほえんだ。

 勝子は不意を打たれた気味で、すこし顔をあからめたが、やがて自分の家を指して、磯子と一緒に話し話し歩いて行った。

 この二人は姉妹のような親しい間柄で、今は同じ屋根の下に日を暮らしている。もっとも、磯子は友達の家の離座敷はなれを借りて、そこから学校へ通っているので、買い物と言ったは自炊する為の海苔のり佃煮つくだにのようなものであった。

 連中の符牒ふちょうに青森というはこの磯子のことである。青森は矢張り盛岡というと同じ意味から来たのである。優等の成績で高等科を出た人で、気性の勝った、望みの高い――まあ敵に成るものもあると同時に味方に附くものも多いと言ったような風の女であった。磯子はまた親切な人として下級の生徒に思われていた。涼子が市川贔顧びいきであると同じように、この人はまた岡見贔顧である。それも師として慕うというまでで、自分には先生をラバアとして考えることが出来ない、などと勝子に話して笑ったが、それほど礼儀深いところのある人であった。師弟の関係は長いこと磯子を苦しめた。何時いつの間にか彼女は岡見の涙をむように成った。而して自分もまた今では涙もろい人に成っている。

 屋敷跡らしい建物の並んだ町のところで、二人は止まった。黒く塗った門の内には勝子の姉の家がある。よく若い女同志がするように、手を引き合ってその門を入ろうとした。手と手と触れた。二人の処女おとめは互いに情の為に燃えていることを感じた。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)