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春:六十五 (1/2)

 憤激のあまり、青木はこんな語気を細君にらしたのであったが、その晩から彼に対する家の人の態度が急に変わって来た。食後に一寸ちょっと歩いて来る積もりで、ぶらりと銀座の市街まちの方へ出掛けると、彼の後から弟がいて来る。しかも、見えつ隠れつして随いて来る。そうして、何処へ彼が行くか、何方どっちへ彼が廻るか、どういう夜店の前に彼が立つか、ということまで一々様子をうかがうという風である。鋭い青木の神経がそれを感得かんずかずにはいなかった。彼は遠回りしに監視されているということを知った。この弟というは、少年の時代からが好きで、何処か性癖の上には兄の青木に似通ったところが有った。ゆくゆくは、美術家として世に立とうという青年わかものである。

 青木は、家の人から自分の行動おこないを監視されているばかりでなく、どうかすると真実さえも話してもらえないような気のすることがあった。翌日の午前、だれか友達が訪ねて来て、しばらく店頭みせさき談話はなしをした様子であったが、青木の方へでいたいと思っているうちに家の人が帰して了った。彼は二階の窓から、チラと友達の帰って行くところを見た。確かに見た。菅か、岸本か、この二人のうちに相違いない。こう思って、母親が二階へ上がって来た時が、

母親おっかさん、誰か友達が訪ねて来やしませんでしたか」

 と聞いて見た。母親は真面目に成って、

「いいえ、誰方どなたもお見えに成りやしないよ――店のお客様は来たけれど」

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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)