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春:六十二 (1/2)

「青木君、何故なぜ君はこんなところへ来ているんだい」と言う人があった。

「何故ッて、ここは僕の家じゃないか」こう青木は答えた。

 不思議にも、部屋の窓には鉄の格子がめてある。書棚のあるべきところには書棚がなくて、そのかわりに天然の厳石がんせきがある。そのいわの鼻には今にも倒れて来そうな石が危うく懸かっている。部屋の入り口の開いたところから、虎のおりが見えて、しかもその檻は是方こちらへ向けて戸を開けてある。横の方の窓から何かのぞいているものがあったが、よく見ると可怖おそろしい毒蝮まむしであった。

「ここは何処どこだね」と青木は知らない人に聞いて見た。

「解りそうなものだなあ――牢獄ろうやサ」とその知らない人が言った。

 そう言われて見ると、部屋は堅固な鉄の塀で囲んである。青木自身は鋼鉄はがねの鎖でつながれている。鎖の長さだけより外に歩くこともどうすることも出来ない。

「だから僕が君に聞いているじゃないか」と知らない人が言った。「何故君はこんなところへ来ているんだッて」

「別に僕は法に触れるようなことをた覚えが無いよ。見たまえ、僕は臆病者だ。強盗をしたり殺人ひとごろしをしたりするような、そんな勇気のある男じゃない。僕は昆虫むしを殺しても気がとがめる――それほど意気地の無い人間なんだからネ」

 こう青木は言ったものの、現在牢獄の中に居るということは事実だ。何の罪があってここへ来ているのか、誰に縛られてこんな処へ押し込められているのか、それは青木にも答えられない。自分の家だ、家だ、と思っているうちに、何時いつのまにかこんな牢獄の中に入っていたのである。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)