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春:六十一 (1/2)

 暗い、重苦しい、酣酔たべすごしたような心地こころもちの日がそれから続いた。今ここで、やりきれなくて倒れるというは、青木の身に取って実に堪え難いことである。何とかして彼は生きる力を回復とりもどしたいと思った。ある時は、宗教へ行った。種々いろいろな宗教家にもって見た。ある時は強い酒のにおいなぞをいで、僅かに生命いのちの日をかき立てようとした。どうかすると彼は自分の部屋から抜け出して行って、年少としわか節操みさおの無いような白い腕の中に、おののき震えている自分を見い出すこともあった。余計に荒れ廃れるばかりであった。

 操は鶴子を連れて来ていて、夫のために看護を怠らなかったし、友達は友達で、交わる交わる訪ねて来た。丁度、麹町の学校から生徒の総代として、勝子が女友達と一緒に見舞いに来た日のことであった。青木は、自分の書いたものはどんな反古ほごでも捨てずに保存して置くという流儀だから、散乱ちらかった草稿を操にまとめさせるうちに、その中から雑誌へ出した論文の下書きが出て来た。それは陶山すやまの社中を相手に自分の意見を発表したもので、「仙人呼ばわりはして貰おう」などとひどく激した時の文章である。

 最早もう十二月らしい日の光が窓のところへしていた。草稿の下書きを読む為に、青木はその側へ行った。しこうして独りでひろげて見た。生き残った冬のはえは窓の玻璃ガラスをめがけて寂しそうに飛んでいた。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
  2. 常用漢字表にない漢字、当て字、異字は初出時に振り仮名を付ける。
  3. 難読語で原文を損なうおそれが少ないと思われるものについては仮名に改める。
  4. 振り仮名はブラウザによって表示が異なる。ChromeとInternet Explorerでは文字の上に振り仮名が振られる「ルビ表示」となるが、Firefoxでは文字の後に()で表示される。文字を強調する傍点は、FirefoxとInternet Explorerでは太字で表示される。
  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)