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春:五十九 (1/1)

 青木の母親は一人で店を切り回している程の男勝りだから、二階へ上がる前にも家のことに気を配って、親類の娘や下女は湯にる、店の番は次男に頼む、長火鉢までいけて置いて、それから炭取りを持って上がって来た。

「私の言うことを聞きさえすれば、こんなことには成らないんだけれど――」

 こう嘆息するように言いながら、母親は窓の方へ行って、玻璃ガラスの妻戸を細目に開けた。冷々ひやひやとした夜の空気は部屋の内へ流れ込んで来た。

「駿一」と母親は青木の名を言って、火鉢の側にすわった。「此頃こないだから私はお前に言いたい言いたいと思っていた。まあ今夜は、私の言うことをよく聞いておくれよ」

 子を思う情から、先ず母親は炭取りの炭を火鉢へ移して、冷たそうな青木の手を温めさせたいと思った。この母親の潔癖きれいずきは青木の神経質にく似ていて、何事も自分の思う通りにしなければ気が済まないのであった。寄る年波と共に、その潔癖は忍耐力こらえじょうの少ないものに成っている。

 青木は思い屈したような眼付きをして、ひどく頸窩の処を気にしていた。その様子が母親の眼には可傷いたましく映った。

「だから、私が言わないこっちゃないよ」と母親は深いめ息をきながら、「家を持つのはだ早い。持って可い時期ときが来れば、お前が黙っていたって、親の方で持たせる。そんなに早く家を持って御覧、きっと困る時が来るよ――そりゃあ、もう、眼に見えるッて、あれ程私が言って聞かせたじゃないか。あの時に私の言うことを聞いて、辛抱しさえすれば、こんなに夫婦で困って来るようなことは無いんだ。それをお前が用いないで、なんでも操をおよめさんに貰いたいと言って、先方様さきさま御交際おつきあいが出来ようが出来まいが、そんなことにはもう一向頓着しないんだもの。あの時、親類も種々いろんなことを言った。駿さんはどうする積もりだ、きまって入るべきものも入らないじゃないか、みすみす困るのは知れきッてる、母親おっかさんがそばに付いていながら、黙って見てる法がないなんて。無論、私も不服だったサ。何を言ってもお前は聞き入れないし、操も可愛想だし、と思うから、私がこの二階で仮に世帯を持たせて見て、――まあ鍋釜なべかまにも及ぶまい、若いものが二人ぎりなら雪平ゆきひらで間に合う、学問が出来たって御飯の加減をするのはまた別だから、こうおしよ、ああおしよッて、私が操に教えて、それからお前達夫婦を世間へ出してやった。ホラ、今となって見ると、私の言った通りじゃないか」

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)