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春:五十六 (1/2)

 青木は元数寄屋町すきやちょうにある自分の家の方からやって来た。もし岸本が行くなら、一緒に誘って、菅の下宿へ出掛けて見る積もりであった。彼は最早幾晩か不眠の状態ありさまに在る。麹町の学校へも病気届を出して休んでいる位である。

 生憎あいにくその日差し支えがあって、岸本は他の友達と一緒に集まることが出来なかった。そこで青木は独りで出掛けた。

 池のはたにある菅の下宿へはよく連中が押し掛けて行った。これは菅の慇懃いんぎんなのと、宿の気楽なのと、丁度集まるに具合のい位置にあったからで。そこへ行くと誰かしら来ている、又やって来る、という風であったから、自然と会合の場所のように成った。

「不穏健は銭がかかる」などと言って、互いに笑ったものであったが、それも蕎麦そばか牛肉位で事は足りたのである。

 その日も青木が訪ねて行って、しばらく話していると、そこへ市川が来た。やがて市川の発議で、彼が泊まっている寺の方へ三人共に出掛けることに成った。連中は、相携えて谷中へ向かった。天王寺の塔が夕日に映るところを眺め、愛護精舎しょうじゃの前を通り過ぎて、出て飲食のみくいする場所を探した。こうして三人して、縄の暖簾のれんくぐって入った時なぞは、富士山麓に添って歩いた当時の遊興を想い起こさせたのである。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)