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春:五十五 (1/1)

 その日から岸本は田辺の家の書生に返った。叔父の積もりでは、岸本に商業を見習わせ、石町の旦那にも引き立ててもらい、行く行くは自分の片腕にも、という将来を楽しんでいたのである。これというのも岸本を子のように思うからで。ところが彼はじべたに生える草のように、ずんずん勝手な方へ延びて行くので、叔父はひどく失望して了った。もともと叔父は士族の出であって、昔風の学問をした人は親戚の間にも沢山ある。漢学の出来る人もある。歌の読める人もある。そういう人々は多く凋落ちょうらくした。叔父はそれを眼前めのまえに見ているから、何卒どうかして弘や岸本には自分と同じ道路みちを歩ませたいと思うのである。「今に彼奴あいつも眼が覚めるだろう」こう叔父は考えていた。叔父の心は岸本に解らず、岸本の心は叔父には解らなかった。

 十一ヵ月ばかり居なかった間に、岸本が身の周囲まわり光景ありさまも動き変わって来た。兄の民助は大将の持ち家を借り受けて、いよいよ三輪みのわの方へ引き移ることに成った。母は姉や孫娘を連れて、遠からず上京するという運びにまで成っている。

 世の変遷うつりかわりは、岸本が国の方から他郷へ向けて移住する多くの人々を出した。彼の郷里は檜椹ひのきさわらなどを産する深い渓谷の間で、耕作に適した土地も少ないような地勢にある。街道が廃れるにつれて、多くの家族は幽鬱ゆううつな森林を出た。こういう人々の中には、旧士族、駅路を支配した家々、旅客を相手に生計なりわいを営んだ部落々々の商人、または労働者なぞを数えることが出来る。彼等は住み慣れた旧家を離れ、静かな炉辺ろばたを捨て、機や養蚕の道具などを置いて、可懐なつかしい故郷に別離わかれを告げて行く移住民の趣がある。殊に岸本の家は、最も古くから住んだものの一つで、土地の馴染なじみも格別深いのであった。母は子に、姉は夫や弟に逢うという希望のぞみを唯一の生命いのちにして、そこを離れて来ようとする女連の心情こころもちは、岸本が都会に居て想像するようなものではなかった。いよいよ国に居る人達も出て来るとすれば、岸本は十三年目で母と一緒に住まわれることに成る。彼が亡父の厳命を受けて、始めて東京へ遊学したのは、まだ髪を河童かっぱのようにかぶっていた頃、金米糖を旅の鞄に入れて貰って、勇んで国を出た程の少年の時であった。

 とにかく、異様な坊主頭で、母や姉を新橋に迎えるということは、ツラかった。早く髪の毛が延びてくれればいい、こう岸本は可恥はずかしく思っている。意地の悪いもので、延びなくて可いような時にはずんずん長くなるが、さて延びて欲しいとなると、余計に遅く思われる。以前から見ると一層こわいようなやつが、そろそろ生えて来た。

 しばらく岸本は友達にも逢わなかった。十一月の末、丁度叔父の家では病人の為に薬湯を立てるというので、岸本も井戸端のところへ出て、水汲みずくみの手伝いをしていると、そこへ青木が訪ねて来た。

 青木は最早世の戦いに疲れて、力屈したという人のようであった。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)