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春:五十三 (1/2)

只今ただいま

 と言って学校から帰って来たのは息子の弘である。

「弘、兄さんが帰っていらしッたよ」

 こう言いながら、老祖母おばあさんは孫のかばんや弁当箱を受け取った。

 弘は十歳にしかならないが、怜悧れいりな、愛らしいで、それに下町風に育てられて、お辞儀の仕方なぞはウマいものである。子供心にも、弘は部屋の光景ありさまて取った。何となく人の思惑をはばかるという風で、岸本のそばへも行かずにいる。その時老祖母は茶箪笥ちゃだんすから弘の好きなものを取り出して、それを岸本に勧めたり、孫に食わせたりした。

 この老婦としよりの眼には、何時いつまでも岸本が子供に見える。「老祖母さん、霜焼けが痛い」と言って泣いた頃の岸本と、今と、そう大した相違が無いように思われている。

「何が不足で吾家うちを飛び出したんだろう」こう老祖母は思いながら、岸本と弘とを見比べて、二人とも成人したものだと、言った様な眼付きをした。

 叔母は臥床ねどこの上に座って、それとなく岸本の様子に注意していた。この病人の鋭い神経は、老祖母や叔父の感じないものを感じた。従来これまで多勢書生を置いた叔母の経験から言って見ると、やれ放蕩ほうとうしたとか、料簡違いをしたとか言って、随分心配をさせられたものだ。若い者がどういう心地こころもちで詫に来たか位は直に読めた。それは十年も前のことだ。一向岸本には「悪い事をしました」というさまが見えない。キマリの悪いせいでもあろうが、妙にこうシラばくれているようにも見える。そうして「姉さんに話したッて、わからない」と言ったような、十年前の書生とは違ったところが有ると思われた。

余程よっぽどお前さんも変人だよ」

 他に言い様が無かったから、叔母はこんな風に言って見た。

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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)