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春:五十一 (1/2)

「釣れますか」こう民助は叔父の傍らへ行って声を掛けた。

「ええ、今日は沙魚はぜ釣りと洒落しゃれてるところなんです」

 と叔父が答えて、釣り竿ざおを持ったまま振り返って見た。

「叔父さん、こういうものを連れて来ました」

 その時叔父は、身丈せいの低い、肥満ふとった体躯からだを起こしながら、驚いたように岸本の顔を見た。岸本はお辞儀一つして、黙って叔父の前に首を垂れた。

「オオ、よく帰って来た」

 と武士らしく威厳をった叔父は、しばらく岸本の様子を眺めた後で、言った。

 大川端には柳の多く有った頃のことで、黄ばんだ霜葉が地に落ちていた。水の中へも落ちた。叔父と兄とは盛んに笑って、樹の下で商売上の話に移った。「大将、大将」という言葉が二人の間に繰り返された。何時いつ来て見ても同じような隅田川の眺めは岸本の眼前めのまえに在る。潮は上げている。帆をかけた船は順を追ってと樹の間を静かに通り過ぎた。一銭蒸気も往来していたが、その度に気紛きまぐれななみがやって来ては、浮いている塵芥ごみを柳の下へ打ちつけた。

「とにかく、家に入ろう」こう叔父が言い出した。「捨、そこにある種々いろいろな物をまとめて持って来てくれ」

 叔父は釣り竿だけ持って、兄と一緒に話し話し家の方へ行く。樹の下に散在ちらかっている道具や、沙蚕ごかいを入れたブリキの缶なぞを提げて、岸本も後からノコノコいて行った。

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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)