» 公開

春:四十九 (1/2)

「まあ、その服装なりは何だ」

 と兄の民助は前垂れ掛けのまま、長火鉢の前に座った。

 民助は総領、岸本は冷や飯の方で、年齢としから言うと十三も違っている。容貌かおつきの上には似たところが多かったが、就中なかにも鼻は岸本家特有の同じ大きな形で、遠い祖先の矜持ほこりと欲望とを見せた。この二人は三百年以上も続いた旧家に生まれた兄弟で、殊に民助は家長らしい威厳と寛大な風貌ようすとをそなえている。

 岸本は黙って、首を垂れて、兄を畏れながら座っていた。彼の坊主頭と墨染の法衣ころもとは千百の饒舌おしゃべり弁解いいわけにも勝って、過ぐる月日の間のことを語るかのように見えた。

「実に驚いてしまう」と民助はすこし怒気いかりを含んだ調子で、「あれほど電報を打ってやるのに、一度も返事を寄こさないなんて」

 こう言いながら熱い茶を入れて、それを弟にも飲ませ、自分でも飲んだ。やがて民助は、岸本が長く居なかった間に起こった種々いろいろの出来事――大川端の叔母の病気も今ではい方に向いていること、石町の大将の娘が亡くなったこと、それから国許くにもとの母親を始め家族のもの一同を遠からず呼び迎える準備中であることなどを語り聞かせた。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
  2. 常用漢字表にない漢字、当て字、異字は初出時に振り仮名を付ける。
  3. 難読語で原文を損なうおそれが少ないと思われるものについては仮名に改める。
  4. 振り仮名はブラウザによって表示が異なる。ChromeとInternet Explorerでは文字の上に振り仮名が振られる「ルビ表示」となるが、Firefoxでは文字の後に()で表示される。文字を強調する傍点は、FirefoxとInternet Explorerでは太字で表示される。
  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

この作品が収録されている電子書籍を読む

春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)