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春:四十八 (1/2)

「岸本さんはりますか」

只今ただいま御留守で御座いますよ。浜の方へ御出ましに成りまして、夕方でなければ御帰りに成りません。貴方あなたは――」

「私も岸本です」

 明治座の裏手にある下宿の入り口の所で、こういう言葉が岸本と下婢おんなの間に交換とりかわされた。下婢は合点の行かぬ容貌かおつきをして、じろじろ客の様子を眺めている。その時、奥の方から家婦かみさんが出て来て、「オヤ」と言って眼を光らせた。

「岸本さんの弟さんだよ」

 と家婦は小声で下婢おんなに言った。

 そこは下宿でもシモタヤのような構えで、瀟洒さつぱりとした格子戸のはまった家である。岸本の兄はもう幾年かそこに下宿生活を送っている。家婦に導かれて、岸本は二階の梯子はしごを上った。そうして、きりの長火鉢なぞが置いてあるところで、とにかく兄の帰りを待つことにした。

 兄は名を民助と言った。その頃は横浜居留地のある商館に関係して、器械売り込みのようなことに従事していた。多分その方の用向きで、その日も浜へ出掛けたらしい。日本橋石町こくちょうにある糸問屋の旦那というのが、大川端の叔父の金主でもあれば、また兄の金主でもあった。大将と言えば石町の旦那のことで、叔父がその大将の相談役、兄も叔父に次いでの役者であった。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
  2. 常用漢字表にない漢字、当て字、異字は初出時に振り仮名を付ける。
  3. 難読語で原文を損なうおそれが少ないと思われるものについては仮名に改める。
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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)