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春:四十七 (1/2)

「ああ、今日のように多忙いそがしい思いをしたことはない」

 こう青木は操の方を見て言い出した。彼は重荷を卸した為にかえってすこし茫然ぼんやりしたという形で、底疲れのしたような深いめ息をいている。

「ふふ」と青木は思い出したように笑って、「今日は宛然まるで眼が回るようだった。午前ひるまえに陶山君の社へ寄って、それから麹町こうじまちの学校へ行こうとすると、途中でもって飛んだ失策しくじりをやらかしたよ」と言って頭をかかえて、「車の上から毛布けっとを落としちゃった」

「まあ――知らずにいらしッたんですか」と操はあきれる。

「後でその車夫が非常な剣突けんつくサ」

「ホホホホホ。父さんも余程よっぽどどうかしていらッしゃる」

 岸本も笑わずにはいられなかった。

 操は夫の様子を眺めて何となく気懸きがかりでならないような眼付きをした。教会の方の仕事を辞めたのは可いとしたところで、筆でその補いがつくだろうか。あの頭脳あたまの具合が悪い悪いと言ってるようでは、心細い。こう操は胸を傷めた。麹町の学校から受け取る僅少わずかの報酬より外に最早きまって入るものは無いのであった。青木の家では半ば米櫃こめびつに離れた形である。

「さあ、俺も多忙いそがしく成って来たぞ」

 こう青木が言って、グタリとしながら煙草たばこふかしていた。岸本は例の問題を持ち出した。恩人の家に帰るか、瀬多の方へ便って行くか、彼の取るべき道はこの二つであると話した。

 青木は岸本から瀬多の説明を聞き取って、

「しかし、君、焼木杭やけぼっくいに火ということも有るからネ」

 と快活らしく笑った。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)