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春:四十四 (1/2)

 舟旅でひどゆすられたものは、おかへ上がった後でも未だ身体がフラフラする――丁度、青木の住居すまいで眼を覚ました岸本がそんな塩梅あんばいであった。

 疲れた友達を慰める為に、青木はその日を費やそうと思い立った。彼は岸本を国府津の町はずれへ誘って行って、そこに住んでいる一人の知己を訪問した。この人は東京のある私立学校で政治科を修め、それから郷里に退いた男で、今では相応に大きな家屋敷の主人公である。進んで戦おうとする新しい時代の青年を羨み眺めながら、自分は何事なんにもせずにいる、と言ったような人物で、太い、たくましい、筋張った腕を胸の上にむなしく組み合わせたところは、この先生に好く似合っていた。

 その日、岸本は法衣ころもを脱いで、身姿みなりだけは平素いつもと同じ風をしていた。毛一本でも、有るべきはずのところに無いのは物足りないもので、何となく上下の釣り合いが取れていなかった。彼は頭痛持ちか、幇間ほうかんかのように見えた。

「これは僕の友人です」と言って、青木は岸本をその家の主人公に紹介したが、同じ口唇くちびるで、「安珍清姫――あれを逆にしたような人なんです」こんな事を追加つけたした。この謔語じょうだんには岸本も閉口したと見え、苦笑いして、頭を撫でていた。そうかと思うと、青木は人の居ない時に、岸本の顔を眺めながら、「正直言うと、君はすこし暴進の形だったネ――君のように熱して了ったんじゃ自由が利かない」と心配する。冷たいやつと熱いやつとが、青木の口唇からは替わりばんこに出て来た。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)