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春:四十二 (1/2)

「この世の中には自分の知らないことが沢山ある――今ここで死んでもツマラない」

 こう岸本は思い直した。彼は浪打ち際で踏みとどまって、そこからもう一度人里の方へ引き返した。

 偶然にも、岸本が今歩いたところは、前川村の隣村であった。いや、小字こあざが違うだけで、同じ村続きと言っても差し支えない程近いところへ来ていた。このことを土地の漁夫りょうしから聞いた時、岸本は地を踏んでよろこ躍った。して見ると、彼が入水じゅすいしようとしたところは国府津こうづに近い相模灘さがみなだの海岸で、一度青木と一緒に泳いだ場所とは物の十町と離れていなかったのである。

 その夕方、青木は近所へ話しに行っていた。細君が駆けて来て、「西行さいぎょうさんが見えましたから、早く御帰りなさい」と言い置いて帰った時は、全く青木も不思議に思った。まさか岸本が坊主になって、そんな近いところまで彷徨さまよって来て、おまけに土左衛門どざえもんに成り損ねたなぞとは思いもよらないから、誰が訪ねて来たのか、こう思いながら、急いで寺に帰った。彼は先ず友達の変わりはてた姿に驚かされた。

「うん、君かア」思わず青木は口走った。「西行さんが来たなんて言うから、誰かと思った」

 漂泊の思想は絶えず青木の胸の底にも在った。それを青木は、口癖のように、「西行的、西行的」と細君に言い聞かせていた。で、飛んだところで、操がその「西行さん」を利かせたのである。

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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)