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春:三十三 (1/2)

「われは自ら答えて、安らかなる心を以て蓬窓ほうそうに帰れり」と青木の文章は続けて書いてある。「わがみたたる群星は未だ念頭を去らず。静かにともしびって書を読まんとするに、我心はなおかれにあり、わが読まんとする書は渠にあり。漠々たる大空は思想の広き歴史の紙に似たり。彼処かしこにホオマアあり、シェクスピアあり、彗星すいせいの天系を乱して行くは、バイロン、ボルテエルの徒――ああ、悠々たる天地、限りなくきわまりなき天地、おおいなる歴史の一枚、これに対してしばらく茫然ぼうぜんたり」

 底の知れない不安は青木の文章にあらわれている。ややもすると、青木はその不安に激せられて、反抗憤怒ふんぬの態度を示したが、一面にはこういう深邃しんすい瞑想めいそうを書いた。岸本は読んで嘆息した。彼もまた紙をひろげて見た。結ばれて解けない彼の胸はどう言い表していいわからなかったのである。書こうと思うことは、多く涙になって流れてしまった。

「岸本さん、御客おきゃく様」

 こう言って寺男が驚かしたのは、面白く空の晴れた晩であった。人恋しくているところへ、しかも日が暮れてから訪ねて来た客が有ると聞いて、不思議に思いながら岸本は出て見た。青木だ。部屋へ迎え入れると、急にいたくなって訪れて来たという。夜気に打たれた羽織の裾をすこしまくって、行儀悪くすわったところは、服装なりふりなぞにかまわないという風で、ひど飄然ひょうぜんとした様子に見える。

 青木は岸本のために心を痛めて来たらしい。もっとも、二度と八戸はちのへ行のような話は出なかった。むしろ彼は自分のことを話した。細君と子供は実家さとの方へって、当分別れ別れに暮らして見る積もりだと言い出した。「どんなに倹約したって、僕のところでは月に三十円かかる、それより以下したでは暮らせない」と言った。「家のやつは、君、下女でも使わなけりゃ、いられないというおんなだからね」こんなことまでも言い出した。「無理もないサ」と青木は何か思い出したように嘆息して、暫時しばらく岸本の顔を眺めて、「ナニ、君、そんな悲しい意味で別れるんじゃないよ」しまいにはこう言って笑った。

 急に青木は耳を澄ました。

「あ、誰か僕を呼ぶような声がする」

 と言いながら、彼は両手を耳のところへ宛行あてがって、すこし首をかしげていたが、やがて高い声でこんな歌を歌い出した。

「ひとつの枝にふたつのちょう
羽を収めてやすらへり。
露の重荷に下垂したたるゝ
草はおもいに沈むまり、
秋の無情に身を責むる
花はうれいに色めぬ」

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)