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春:三十二 (1/3)

 四五日の間は、名のつけようの無い深い苦痛くるしみされるような日が続いて、そういう時には急に身体からだが震えたり、胸騒ぎがしたり、思わず知らず涙が流れたりするが、それを通り越すと、今度は妙に寂しい、居てもってもいられないような日が来る。こんな状態ありさまで、岸本は勝子のことを思いつづけた。実意の籠もった手紙を受け取ってから、それに激せられて、一層彼は恋の情に燃えた。勝子がなければ、現世このよに生きている甲斐かいが無いように思われて来た。

 十月中旬と成った。岸本は青木のところから送ってよこした雑誌を受け取った。中に青木の文章がある。それを見ると、可懐なつかしい友達が住居すまいのあたり、海岸の空、漁村の光景ありさまなぞが眼に浮かぶ。友達は今どんなことを考えているかということもわかる。

 こう書いてある。

「ある宵、われ窓にあたりて横たわる。ところは海のさと、秋高く天あきらかにして、よろずかたち、万の物、凜乎りんことして我に迫る。あたかも我が真率ならざるを笑うに似たり。恰も我が局促きょくそくたるを嘲るに似たり。恰も我が力なく能なく弁なく気なきを罵るに似たり、かれごとく我に透徹す。そうして我は地上の一微物、渠に悟達することの甚だ難きは如何いかにぞや。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)