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春:三十一 (1/2)

 次第に岸本は前後あとさきを顧みない様に成った。しまいには、友達の手も借りず、勝子の家へ宛てて直接じかに手紙を送るという無謀なことをった。岸本の胸はあふれ過ぎて、思うところを十分に言い表せない。それに比べると、勝子から来た返事は自由に書いてある。真情がよく出ている。鎌倉の寺にどういう日を送っているか、という意味の書き出しで、「君」という言葉がところどころに使用つかってあった。勝子は最早もう師弟の関係を忘れて、純直な、可憐かれんな胸を開けて見せた。君は無暗むやみなことをする、とく人が言う、自分ゆえに君もそんな風に成ったか、と考えると可傷いたわしい、こう書いてある。もともと自分は文学ということをさほど好みもしなかったのであるが、君故に、好きになった、そうして今まで知らずにいた世界のあることを知った、これも君の賜物たまものである、こう書いてある。清い交際まじわりも続け難いものとか聞いているが、君の心を力にして、自分も女らしい道を歩みたい、こう書いてある。家を持った人に言わせると、思った程でも無いとやら、しかし父と呼び母と呼ばれ、夫と呼び妻と呼ばれてこそ、現世このよに生まれて来た甲斐かいがある、吾等われら二人、何という薄いえにしであろう、こう書いてある。世間を見るに、すぐれた女は沢山にある、なにも自分一人が女という訳でもなし、こんなことも書いてある。この心情こころもちわからない人は、仮令狂たといきちがいじみてると言おうが、何と言おうが、言ってもかまわない、聞き入れもしない、こう書いてある。「ああ、わが身はすでに死せるなり、残るはただ君を慕う心あるのみ」こう書いてある。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
  2. 常用漢字表にない漢字、当て字、異字は初出時に振り仮名を付ける。
  3. 難読語で原文を損なうおそれが少ないと思われるものについては仮名に改める。
  4. 振り仮名はブラウザによって表示が異なる。ChromeとInternet Explorerでは文字の上に振り仮名が振られる「ルビ表示」となるが、Firefoxでは文字の後に()で表示される。文字を強調する傍点は、FirefoxとInternet Explorerでは太字で表示される。
  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)