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春:二十九 (1/2)

 なみは高かった。ややもすると岸本は流されそうに成った。青木の方はこの海辺かいへんに生まれただけあって、友達よりもよく泳げる。彼の体力はまだまだそう失望したものでもないということを思わせた。この思想かんがえに力を得て、友達と一緒に浮いたり沈んだりしていると、何時いつの間にか岸には多勢漁夫りょうしが集まって、二人の方へ恐ろしい魚鉤つりばりを投げてよこす。鉤はうなって来る。それが右にも左にも落ちる。二人は喫驚びっくりした。そこそこに岸へ泳ぎ着こうとしたが、かえって浪のため反対あべこべな方へさらわれて行った。またまた浪が押し寄せて来て、なぎさの方へ二人とも持って行かれたかと思ううちに、やがて崩れ落ちるような壮大おおき音響ひびきがした。その時、二人は白い泡の中に立つことが出来た。

 海には幸の多い日であった。鉤に懸かったかつおは、婦女おんな子供の群に引かれて、幾尾いくひきとなくおかへ上がった。

 この光景さまを眺めながら、暫時しばらく二人はそこへ足を投げ出して、暖かい心地の好い砂を身体からだなすりつけた。甲羅を干す積もりで岸本は這倒はいのめって見たが、首をかしげると、耳から汐水しおみずが流れて出る。同時に、両国の河岸でよく泳いだこと、家を飛び出して最早もう九か月に成ること、奥州おうしゅうのはてまでも遠く旅したことなぞを思い出す。青木は自分で自分の膝頭を抱いて、不調和な社会よのなかみ疲れたような眼付きをした。しまいには、その膝頭へ額の着くばかりに重苦しい頭を垂れた。そうして、じつと目をつぶって、岸に砕ける浪の音を聞いた。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)