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春:二 (1/3)

 菅は寝返りを打つようにぐるりと身を返して、やがて俯臥うつぶせのまま頬杖ほおづえを突いた。彼は寝ながら謹聴という態度を執った。心の好いこと無類というこの青年の眼には哲学者のような沈静おちつきがある。彼はまた年に似合わず毛深い方で、顎の辺なぞは奇麗にり立てているが、濃く厚いひげの痕は青々と人の眼についた。連中で彼を好かないものは無い。彼は年寄にも子供にも好かれそうな性質たちである。

 その時、市川は嘆息して、「実は僕も、もうすこしで岸本君の後を追うところだったのです」

「君もそういう気に成ったかねえ」と青木は同情おもいやりのある語気で言った。

「なにしろ僕のところなぞは事情の多い家庭うちで、姉と養子の折り合いは好ましくないし」と市川は言いかけて、暫時しばらく対手あいての顔を眺めて、

「姉は又、何事なんにも知らないものですから、一途いちずに僕を頼りにしてるんです。僕が旅にでも出てしまおうものなら、後はどうなるか知れない。今一歩ひとあし――というところで、僕は考えました」

「そこまで考えるのが至当あたりまえだね」

「岸本君の行き方はそうじゃ無い。あの男が考える時分には、最早一歩踏み出してしまっている」

「そんなら見給え」青木は力を入れた。「岸本君のように破って出ようとしたところで――畢竟つまりどうなる。そこが悲しいところさネ。束縛という執念深しつこやつ何処どこまでも人間にいてまわるよ」

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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)