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春:十九 (1/2)

 勝子は今岸本の前に居る。もし来たらああ言おうかしらん、こう言おうかしらん、と種々いろいろ聞いて見たいことや話したいことなぞを考えて置いたが、さて逢って見ると、岸本は思うように話すことも出来なかった。こうして長く居ることは事情が許さないという風で、何となく勝子は沈着おちつかないように見える。それに、一度師弟の関係があったということは、自由な談話はなしを妨げた。このあわただしい邂逅めぐりあいの間にも二人は礼儀を失うまいとした。よく自堕落な教師の話なぞが出ると、眉をひそめる方の岸本であるから、余計に勝子の前では厳格に成る。第一師弟の関係が岸本には深い苦痛の種である。彼は八戸の酒屋の名をしたためた物を勝子に渡したりなぞして、復機会またおりがあったら、と再会を約したが、心には許婚いいなずけのある人に逢って話をするということのこれが最初でも有りまた最終でも有るかのような気がした。勝子は別離わかれを告げて出た。

 入口のところには車夫くるまやが待っていた。格子戸を出て、勝子は名残惜しそうに岸本の方を見た。二人は無言の思を交換とりかわした。その時ばかりは、師弟の礼儀を守ったとも言えなかったのである。

 午後ひるすぎになって菅が帰って来た。岸本は談話の出来なかったことを友達に語り聞かせて笑った。全く、その日の会合は岸本の予期した程でもなかった。しかし後に残った印象は忘れる事が出来なかった。ありありと岸本は心に描くことが出来る。まだ勝子は眼前に居るような気がする。もっと姉さんらしい人のように考えていたが、逢って見ると存外娘らしいところがあった。何となく彼は別の人に逢うような心地こころもちもした。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)