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春:十八 (1/2)

 記念として、市川、岸本の二人は一緒に写真を撮った。岸本が東北行の旅費は伝馬町てんまちょうの方で出してくれる、こういうことに成ったのも市川の尽力である。友達のなさけはただそればかりでなく、せめて一度勝子に逢って行け、とその機会までも菅が心配して作ってくれた。

 いよいよその日が来るという前の晩に成った。夢寐むげにも忘れなかった情人との再会を考えて、岸本は眠れなかった。盛岡の旧家に育って名ある人の娘だということや、今は麹町の姉の家に居るということなぞは、間接に岸本も承知していたが、いかんせん勝子とは遠し、また家族の人々とも遠かった。朧気おぼろげながら岸本に勝子の事を知らせたのは峰子である。勝子に親の定めた許婚いいなずけがあるということも、岸本は西京へ行って初めて確かめた。

 薄紅い、柔軟しなやかな、女らしく肥った手は、暗黒くらやみにも岸本の眼に見えた。峰子の手だ。それは未だ世の中の汚濁にごりに染みない人の処女おとめらしい手である。その手が勝子のに彷彿そっくりであると、岸本が峰子の前で言った時に、峰子は微笑ほほえみながら引っ込ましてしまったことがあった。岸本はあの姉さんらしい女を通して勝子の手を見つけたのである。二人の女の間には度々文通があって、勝子からの便りに、「自分の肥えるのも今が絶頂かと思う」としてあったことなぞは、岸本も聞き覚えている。何時いつの間にかあの二人の文通は絶えた。こんなことを岸本は夜通し胸を浮かべて、勝子との再会を想像して見た。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
  2. 常用漢字表にない漢字、当て字、異字は初出時に振り仮名を付ける。
  3. 難読語で原文を損なうおそれが少ないと思われるものについては仮名に改める。
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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)