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春:十五 (1/1)

 その手紙はごく簡短に、どことなく以前もとの先生然とした調子で、「八戸へ行く前に是非一度逢って話したい」こういう意味に過ぎなかった。

 しかし、勝子へ宛ててこれ丈の手紙を書く時節が来たということすら、岸本には夢のようである。彼の鬱屈した性質は何事につけても思うところを言い表わすことが出来なかった。彼は放浪したり、慟哭どうこくしたりして、胸の苦痛くるしみを忘れようとしたのであった。旅のはじめに、彼の意中を勝子へ伝えたのは岡見の妹である。それは岡見の計らいである。岸本は唯それだけで満足だと言った。こうして手紙を書こうなどとは、実際思いもよらなかったことである。

 翌日の朝、菅は羽織はかまで出掛けた。勝子からの返事を見るまでは何となく岸本も沈着おちつかなかった。友達の留守に、岸本は自分の風呂敷包みを取り出して、日あたりの好いところへ展げて見たが、一つとして旅の記憶を喚起よびおこさない物はない。脚絆きゃはんなぞは、もうさんざん穿いて、穿いて、こはぜの糸が切れかかっている。

 大きな、光沢つやのある、奥床しい眼が、ふと光るように思われた。それは彼が旅に出たばかりの頃、岡見の紹介で訪ねて行って、着物のことから宿のことまで、親切に世話をされたその人の眼である。雪にれながら西京の学校へ着いて、寄宿舎の応接間にある火鉢の傍で、岸本は始めて峰子に逢った。峰子は同情おもいやりの深い、母親おっかさんらしい、温味あたたかみのある女であった。岸本よりは三つほど年長うえの姉さんで、未だ何処どこへもかたづかずに、女の生徒を教えていた。恐らく峰子は弟のように岸本の事を考えたのであろう。その眼が姉さんらしく光っている間は至極無事であった。つじに居る車夫くるまやから「奥さん」と言われて、顔をあからめた頃の眼は未だ無事であった。岡見の妹の名をめて、涼子りょうことは好い名だ、峰なんていうのはありふれていて面白くない、こう言って笑った頃の眼は未だ無事であった。岸本のために旅の着物を縫いながら、「私がもし男なら、貴方あなたと御一緒に旅でも何でもするんですけれど――女の身体というものはそう思うようにいかないことが有るんですから」と言った頃の眼は未だ未だ無事であった。急にその眼は不思議な光を帯びて来た。どうかすると涙に濡れて、独棲ひとりずみ寂寞さびしさを嘆くかのように見えた。しまいには物を言うように成った。もう姉さんらしい眼ではなかった。

 岸本が勝子に逢おうと決心するまでには、どれ程狂人きちがい染みた苦痛くるしみめたか知れない。琵琶びわ湖に近い茶丈に旅の足を休めた頃、二月半ばかりの間は自分で自分を責め通した。彼が最後に西京へ寄って、潔く自分の決心を話した時は、峰子も別離わかれを惜むように見えた。こんな訳で、過去すぎさったことを許してもらう積りで、岸本は勝子に逢いたいと思うのである。

 午後ひるすぎになって、菅は学校から帰って来た。究屈袋を脱ぐ間もなく、書物ほんの間から勝子の返事を取り出して、それを岸に渡した。「この場合、かえってお目に掛らない方がいかと思う」こういう意味に書いてある。余程先後あとさきを考えて書いてよこしたらしいこの返事が、岸本には失望の念を起こさせた。彼は一種の怒りを感じた。夕方から、二人の友達は青木を訪ねるために木挽町の家を出た。

 丁度、二人が出ると間もなく、この家の前で人力車くるまめた若い女の客がある。背は高いという方の人でもない。入口のところに立って岸本を訪ねたが、菅と一緒に出掛けたと聞いた時は失望したらしく見えた。「まあ、残念なことをしましたねえ」と菅の従姉妹が取次に出て言って、不思議そうに客の様子を眺めた。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)