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春:十四 (1/1)

 岸本は二三日居候という格で、菅に随いて梯子はしごだんを下りた。長火鉢のあるところには、老祖母おばあさんを始め、可愛かわいらしい女の児が集まっている。十二三に成るいたずら顔の小娘も居る。叔母おばさん従姉妹いとこは台所の方で下女を相手に働いている様子であった。

老祖母おばあさんに一つ逢ってくれたまえ」

 と菅は言って、髪の白い、眼のくぼんだ、だ顔色なぞの艶々した老婦としよりを友達に対面ひきあわせる。

「時三郎がいろいろお世話様に成ります」こう老祖母が言う。

「いえ、私こそ」と岸本は額に手を当てた。

「貴方もしばらく遠方へ行っていらしッたそうですね」

 とこの老婦としよりが、親切な、沈着おちついた調子で言った。

 老祖母は若いものの働くところを見て、唯座っていた。この下宿を主にやっている叔母おばさんは、寡婦やもめらしい、寂しい人で、老祖母おばあさんのような愛嬌あいきょうには乏しかった。まだ外に菅の叔母という人は幾人いくたりもある。従姉妹も多勢ある。この通り女の多い一族いちまきで、親類中見渡したところ男らしい男は菅と栗田くりた従兄弟いとこたった二人ぎりである。殊に菅は例の淡泊な、温厚な気質から、「時ちゃん、時ちゃん」と言って頼もしく思われていた。多くの従姉妹の中に交じって成長した彼は、平気でその若い人達と一緒に寝たこともある。不思議なことには、これ程親しかった家の人と菅との間が箱根以来急に変わって来た。何となく彼は沈着おちつかないような風をしている。

 台所の方では客の仕度も出来たと見え、置き並べた膳の前に従姉妹が立っている。下女は出たり入ったりしている。叔母は何か食物を持って子供の傍へやって来た。

「さあ、老祖母の傍で、皆な温順おとなしくしておあがり」

 と言われて、飛んだり跳ねたりしていた小娘までも行儀よく一緒に座った。

彼方あっちの兄さんに笑われますよ」

 と老祖母は小声で叱るように言う。小娘は馬鹿にしたような、トボケた眼付きをして、ちょっと岸本の方を盗むように見た。

 菅と岸本とは黙って顔を見合わせながら食った。叔母は襷掛たすきがけのまま、長煙管ながきせるで一服やっていたが、それとなく二人の様子に注意しているらしかった。

 夕飯の後、岸本は菅に紹介されて、栗田という従兄弟に逢った。菅とは余程調子の違った人で、高等学校の制服を着けている。この従兄弟にも、菅は打ち解けていないように見えた。

 その晩、菅と岸本は二階の部屋で遅くまで話した。二人はひそかに、しかも熱心に、互いの意中を語り合った。話は何時の間にか麹町こうじまちの学校の噂に移って行った。九月に入ってからも菅も教鞭きょうべんを執るように成ったのである。彼は英語の外に、哲学史の梗概を高等科の生徒に授け始めたという。この学校へは岸本も旅に出る前一年ばかり通っていた。今は青木が代わって教えている。

「君、盛岡にも逢ったよ」

 こう菅は微笑ほほえみながら言った。

 盛岡という符牒ふちょうは生まれ故郷から来たものである。勝子が本名である。勝子は今、高等科の生徒でいるので、菅の教場へも出て、講義を聴くとのことであった。こういう関係から、菅は岸本の胸中を思いやって、手紙の使い位はしてやると言い出した。その夜、岸本は始めて勝子へ宛てた手紙を書いた。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)