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春:十三 (1/2)

 長い漂泊の揚句、岸本は再び可懐なつかしい東京へ入った。彼は色のめた紺飛白こんすがりの単衣を着て、多くの旅客と一緒に新橋停車場ステーションに着いた。群集ひとごみの中を通り抜けて、古風な石造りの建築物たてものの外へ出ると、停車場前に客を待つ人力車くるま、湿った往来の土、物揚場の煙、河岸かしに添うて並ぶ町々などの混雑ごちゃごちゃした光景ありさまが、彼の眼前めのまえる。旅のはじめに比べて見ると、彼は一層切ない無言の悲哀かなしみを抱いて是処ここへ帰って来た。新橋向こうの柳並木の陰には喇叭ラッパの音が起こった。万世まんせい通いの馬車だ。それを聞くと東京へ入ったという感想かんじが余計に深くなった。

 ふと、種々いろいろな物を載せた茶箪笥ちゃだんすが岸本の胸に浮かぶ。そのそばには髪を切り下げた老祖母おばあさんが居る。琥珀こはくのパイプをくわえた叔父が居る。叔母が長煩いの寝床も敷いてある。そこへコンコン音をさしてやって来る兄の乾咳からぜきも聞こえるような気がする。それは岸本が忘れることの出来ない恩人の家庭である。叔母危篤、帰れ、という兄からの電報を受け取った時にも、黙って家出をした彼は最早もう帰るまいと決心して、わざと返事をしなかった位である。東京の土を踏むと同時に、彼は周囲あたりを見回した。そうして、罪人のように人目をはばかったり、震えたりした。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
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  3. 難読語で原文を損なうおそれが少ないと思われるものについては仮名に改める。
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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)