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春:百二十九 (1/2)

 せめて一日ゆっくり東京で寝て行きたい。これより外に岸本の願いは無いのであった。それほど彼は疲れていた。

 るだけの事をた上でなければ、休んでも休んだ気がしない。兄の民助の上告も、大審院での審判の結果によれば、甚だ好都合に行った。控訴院判決の全部は破棄される。更にこの裁判を名古屋の地方裁判所へ移すとある。上告は聞かれたのである。そこで民助は鍛冶橋の未決監を出て、名古屋の方へ送られることに成った。この見送りを済まさないうちは、岸本も肩が抜けたとは言われなかった。第一、母親が許さなかった。

 鍛冶橋から通知のあった翌日、岸本は幸平兄と一緒に森川町の新しい住居を出た。その日は乾燥はしゃいだ、風の多い、日は熱くても割合にしのぎ好いような日であった。幸平と岸本とは三つしか違わない兄弟で、よく子供の時分には喧嘩けんかして、兄が弟の頭をブンなぐれば、弟は兄の顔を引っいたりして、毎日のようにいがみ合ったものである。「幸さんが顔を洗った後なら、俺は洗わない」なぞと言って、弟がキタナイような顔付きをすると、「何だ、この捨公」と兄が言うが早いか、最早拳固げんこがコツンと飛んで来る。こういう二人の兄弟が今は煙草たばこの火を親しげに附き合って、弟は兄から「捨さん、捨さん」とか、「オイ、君」とか言って頼みに思われている。「捨さんは夢を見たようなことをよく言ってる人だ」こう兄は弟を評して笑っている。鍛冶橋監獄署の門前で、この兄弟は総領の民助兄が出て来るのにった。

「兄さん、荷物を持ちましょうか」

 と岸本は民助の傍へ近づいて、低声こごえで言って見た。民助は巡査も思惑をはばかって、小脇に風呂敷包みをかかえたなり出掛けた。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)