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春:百二十八 (1/2)

 月は空にあった。時は夜の十二時に近い。涼しい風の来る不忍の池のほとりへ集まった男女も、一人減り、二人減りして、最早人の影が見えない。水に臨む家々でも多く戸を閉めて寝た。弁天の境内から出て来て、蒼白あおじろい闇の中を帰って行く人々があった。その中には、市川が居る、夏休で出て来た足立が居る、菅が居る、連中以外の人も居る、岸本も居る。いよいよ岸本は仙台の方へ行くことにきまったので、彼の送別をかねて、その晩友達仲間が一緒に集まったのである。もっともにわかの思い付きで、興はかえってその俄に思い付いたところにあった。

 その晩は皆酔った。各自めいめい志すところは違っているにしても、なお同じ親しい記憶につながれていることを思い起こさせた。市川も菅もそこまで附き合おうというので、足立や岸本の行く方へいて来た。連中は一緒に池の畔を歩いた。盛んに話したり飲食のみくいしたりした部屋は、岸の是方こちらから明るく見られる。灯は静な暗い水に映っている。一夕いっせきの清興は未だそこに残っているかのようでもある。

 夜の景色は夢のように見える。暗い柳は人のように立っている。あの細長いえだから黄色な花が落ちて、青々とした新芽が吹き出して頃から見ると、今は柳も髪も長く垂れ下げた女のようにかたちづくっている。長閑のどかなようであわただしい、楽しいようで風雨の多い、努力の苦痛くるしみと浪費の悲哀かなしみとで満たされたような――若い、新しい、さかんな感想かんじのする時節は、までもこう苦労させた。新造しんぞと言いたいが、柳は最早年増としまにしか見えなかった。

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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)