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春:百二十五 (1/2)

 すくなくも自分は正直である。こう岸本は机の側に倒れながら、自分で自分のことを考えた。追想は更に彼を少年時代へ連れて行った。而して、幼い時の自分というものを見せた。

 追想が岸本を連れて行ったところは、銀座の天金の横町にある蔵造りの家である。往来に向いて窓がある。その窓から明かりの射し込む三畳ばかりの玄関がかつて自分の勉強した部屋である。野心深い少年であった自分が、ナポレオンの小伝なぞを読んで、感激して泣いたのもその窓の下である。その玄関と次の八畳の間は段々の付いた入り口に成っていて、今の大川端の弘が未だ人に背負おぶさっている頃、「バア」と自分が暗い処から出て大事な独子息ひとりむすこ威嚇おどかしたと言ってしかられたり、入り口の壁と壁の間へ足を懸けて上がるうちに落ちて気絶をしたりした場所である。八畳の上には二階があって、丁度自分が山猿のように、逆さに登る稽古けいこをした梯子はしごがある。八畳には大きな書生が居て、夜は自分もそこへ集まって、同じ洋灯ランプの下でほんを読んだ。叔父は未だ大川端へ引き移らない前のことで、その頃は美しいひげを生やしていたが、代言人の試験を受けると言っては自分の机の前へ来て、自分に法律上の書籍ほんを読ませて、「それはこうです」とか「ああです」とか答えて、よく自分を試験掛に見立てたものであった。八畳の次が板の間で、その奥に居間がある。叔母の臥床ねどこはもうその時分から敷いてある。すこし叔母が気分の好い時には、池の金魚の見えるところへ家の人を集めて、病を慰める為に花札はなを引いた。その時自分も雨だの日の出だのの画いてある札を持って見て、「青タン」とか「三コウ」とかいうことを始めて習った。よく台所の方では、叔母の為に牛肉のソップをこしらえた。倹約な老祖母おばあさんは、そのソップかすへ味を付けて自分等にも食わせたが、終いにはそのにおいが鼻へ着いて、誰も食う気に成れなかった。仕方がないから、老祖母はそれをして、三時の茶というと出した。そのソップをこしらえる為に、生の牛肉を細かくさいの目に切って、口の長い大きな徳利へ入れる。これがまた一役で、気の長い者でなければ勤まらなかった。丁度奥の二階には、叔父の親戚にあたる年老いた漢学者が親子連で来て世話に成っていて、結句牛肉の切り役はこの温厚な白髪の老先生へまわった。老先生が眼鏡をかけて、階下したで牛肉を切っている間は、奥の二階は間寂しんとしている。そこには先生の書籍ほんが置き並べてある。机の上には先生の置き忘れた金銭かねがある。その金銭を十銭ばかり盗んだものがある――この盗みをしたのが、自分だ。

表記等について

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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)