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春:百二十四 (1/2)

「まあ、こんなに寝る人が何処どこにあるずら」

 と母親は二階へ来て見て、あきれて、暫時しばらく岸本の寝顔を眺めながら立っていたが、やがて戸棚から薄いものを出して、風邪を引かないようにそれを吾が子にけてくれた。

「昨日からろくに御飯も食べない――きっと身体の具合でも悪いのだろう」

 こう独語ひとりごとを言って、母親は階下したへ降りて行った。

 ふと岸本が眼を覚ました頃は、最早午後の三時過ぎである。彼は前の晩から寝つづけに寝たと言ってもい程寝て、まだそれでも寝足りないように思っている。むっくりと起き直って、自分の机の前に座って見たが、寝過ぎると、疲労つかれと、夏の日の熱苦しさとで何事なんにも手に着かなかった。本箱の中に並べてある種々いろいろな新しい思想を書いた書籍ほん――寝食を忘れて愛読した程の書籍――それも別に興味を起こさせなかった。岸本が落ちて行った思想かんがえでは、東西の大家が自分等青年にのこして置いてくれた文学上の産物も多くは人間の徒労を写したものに過ぎない。悲壮な戯曲もいたずらに流した涙である。微妙な詩歌も溜め息である。何を苦しんで自分等は同じ事を繰り返す必要が有ろう――こう暗く考えるように成った。何の為にその日まで骨を折って来たのか、それが岸本には解らなくなった。

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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)