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春:百二十三 (1/2)

 翌朝、岸本は遅くまで寝ていた。働き好きな母親は暑くならないうちにと思って、洗濯物を急いで、台所の板の間でのりまで付けて、それを狭い裏口の物干し竿ざおに掛けて来て見ると、まだ岸本は寝ていた。表格子の方からは、最早熱苦しい日がして来た。岸本は起きよう起きようとしても、どうしても頭が重くて持ち上がらないという風で、唯臥床ただねどこの上にもがき倒れている。そこで母親の手を借りた。丁度暴風あらしの為に倒れ掛かった樹木へ突支棒つっかえぼうでもして、それでようやもとの位置へ復したように、岸本はず頭から持ち上げて貰って、漸く身体が自分のものに成った。

 すこしばかり物を食った後、彼は二階にある自分の部屋へ行った。そこで身のまわりを眺め回した。焼け石に水とやら。岡見から借りた金ぐらいで幾日を支えることが出来よう。大抵は穴埋めで済んでしまう。母親、姉、幸平兄、愛子、それから鍛冶橋に居る兄、一時いっきたりともお杉さん――これからの人々を養うということは、未熟な岸本の身に取って、決して容易ではなかった。兄を救うため弁護士一人頼むすら、すくなからぬ金を要する。そうそう親類でも届かないということに成る。石町の大将始め、大川端の叔父、国許くにもとの姉、いずれへも迷惑をかけられるだけ懸けた。今は親類も疲れて来た。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
  2. 常用漢字表にない漢字、当て字、異字は初出時に振り仮名を付ける。
  3. 難読語で原文を損なうおそれが少ないと思われるものについては仮名に改める。
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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)