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春:百二十一 (2/2)

 その時、石の上に帽子を敷いて、破れた扇子を持ちながら居眠りしていた男は、急にこの笑声で眼を覚ました。

「何を笑っているんだ」とその若い男が眠そうな眼付きをして尋ねる。

「貴様なぞに解ってたまるものかい」と歯の抜けた隠居がたわむれて、汚れた手拭いで若い男の顔をクスグるように払った。

 若い男は石の溝を離れた。彼は樫の葉陰にある空車の上をえらんで、そこに破れたむしろを敷いて、裏返しにした帽子の中へ頭を突っ込みながら、大の字なりに寝転ねころんだ。はえの群は来て穴のあいたシャツや大きな尻のところへ取り着いた。

 不忍しのばずの池の方から、青いはすの葉を渡って来る風が、そこに楽しい休息の世界を作っている。紙屑かみくず、皮、塵芥ごみ、綿などを積み載せた荷車がそこに置き並べである。荷馬車を引いて来た、棕櫚しゅろのような汚れたたてがみの老馬も、そこへ来て止まった。日に焼けた羅宇屋らおやもそこへ来て荷を卸した。而して、汗染みた財布の中からその日の所得を取り出して数えていた。

「一体、俺は何しにこんなところへ立っているんだろう」

 こう岸本は自分で自分を笑って、やがてその樹陰こかげを離れた。

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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)