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春:百二十 (1/2)

「――自分は今、眼に見えない牢屋ろうやの中に居る。鍛冶橋の居る兄さんの為には、あれほどひとが大騒ぎしても、自分が苦しんでいることを見てくれる者が無い。ああ病人はむし幸福しあわせだ――身体の頑健じょうぶなものはそこへ倒れるまで誰も知らずにいる」

 到頭岸本はこういうことを考えるように成った。七月の下旬、ぶらりと大根畠の家を出て行こうとする頃の彼は、最早何事なんにる気の無い人であった。

「捨」

 と母親が呼び留めたので、岸本は夏帽子をかぶったまま柱のところに立った。

 母親は声を低くして、「先刻さっきお米屋さんが督促に来たよ。それに、大屋さんへは未だ先月分が払ってないッて、姉さんが心配している。お前、何とかしてやっておくれや――」

 岸本は黙って母親の顔を熟視みまもった。

「姉さんが、捨さんには気の毒で私から言えないが、兄さんの方へもお金を入れるように母親おっかさんから言って貰いたいッて――」

 その時お杉さんという人が、台所の方から出て来たので、母親は口をつぐんで了った。このお杉さんというのは、姉の姉で、今の亭主と口を利き合ったような場合には、極まりで飛び出して来る。他に行く処もないから、岸本の家を便たよって来る。磊落らいらくで、放縦で、年はとってもなかなかの洒落者しゃれもの、内気な妹に比べると、同じ姉妹きょうだいとは思われない。このお杉さんが頼むと言って来れば、いやとは言えないほど愛嬌あいきょうのある人であった。

「捨さん、また御厄介に成りに上がりました」

 とお杉さんが言った。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)