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春:百十九 (1/2)

 この陶器画の仕事場へ岸本を紹介したのは麹町の老先生であった。老先生は洒落気しゃれけこそ多かったが、若い者をもてあそぶような人では無かったから、唯陶器せとものの画も面白かろう位の慰み半分な考えで、岸本の言うなりに園主へ宛てた手紙をくれたのであった。物に拘泥こうでいしない老先生も、こうして岸本が男や女の中に交じって、輸出向けの菓子皿なぞを塗っていると聞いたなら、さぞ驚いたことであろう。

 絵画を愛するのは岸本が天性に近かった。彼は多少物のかたちを画く力をも具えていた。小学校時代から高輪の学校時代へかけて、絵画はむしろ彼の得意とするところで有った。この思想かんがえに励まされて、彼は陶器の画工をえらんだのである。万更たのみにすることがなくてこの仕事場へやって来た訳でも無かった。

 とは言え、人の気を腐らせるような職工仲間の空気は、到底彼に適しなかった。彼は最早一日でいやに成って了った。

「まあ、よく考えておでなさい」

 と園主は岸本に言って別れたが、「中年者は見込みが無い」と言ったような眼付きをしていた。

 素焼きの陶器が荷造りのまま積み重ねてある門のところを出て、大根ばたけの方へ帰って行く時の岸本は、二度とあの紫色の絵筆を持つ勇気が無かった。「大馬鹿!」と彼は自分で自分を嘲って、泣き出しそうな顔付きをしながら歩いて行くと、眼の回るようにいそがしい町々の光景ありさまは漠然とした恐怖の念を起こさせる。用事ありげな人々を乗せた車は前からも後からも駆けて通る。ボンヤリ考え込んで歩いている彼は、どうかすると駆けて来る車夫くるまやに突き飛ばされることも有った。そうして、可恐おそろしい勢いで引き殺されそうな思いをした。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)