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春:百十七 (1/2)

 それから二月ばかりは夢のように過ぎた。梅雨のあがろうとする頃には、岸本はもう全く別の職業の中に埋没うずもれて了う積もりで、築地のなにがし園という方へ歩いていた。そこは陶器画を専門にする大きな仕事場であった。

 養子の話はどうした。関根が対手あいての娘を紹介ひきあわせると言って、わざわざ岸本を呼び寄せたのは、丁度麹町の学校の卒業式のある日のことで、その娘も卒業生の集会あつまりに出て来ているから、今に逢わせる、今に逢わせると言ううちに暗くなった。焼け跡の混雑とりこみから、式はある他の場所を借り受けて、灯火あかりく頃に始まった。式の後、関根は岸本を人の居ないところへ連れて行って、低声こごえに成って、「岸本君、折角君をお呼びしましたが、どうも僕は君にあの人を見せる勇気がない――きっと君は失望なさるから」こんなことで到頭岸本は逢わずに帰った。幾月も頭脳あたまを悩まして、幾度も足を運んで、話のあった当時から胸をドキドキさせて、養子に行った先方さきのことを種々いろいろに想像したり、くうに日を送りながら待っていたりしたことは――結局、後から考えるとボンヤリするようなことに終わって了った。とは言え、彼は関根に感謝した。関根が躊躇ちゅうちょした為に、自分は反って方向をあやまらなかった。冷や汗を流しただけで済んだ、と思った。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
  2. 常用漢字表にない漢字、当て字、異字は初出時に振り仮名を付ける。
  3. 難読語で原文を損なうおそれが少ないと思われるものについては仮名に改める。
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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)