» 公開

春:百十三 (1/2)

「捨」

 こう呼び起こす母親の声に驚かされて、岸本は眼を覚ました。まだ四辺そこいらは薄暗い。部屋のなかには洋灯ランプが細目にけてある。四月中旬のあるあけがたのことである。

 母親と姉の二人は暗い台所の方でいそがしそうに働いている。井戸端まで顔を洗いに行って、やがて岸本はショボショボ眼をこすり擦り帰って来て見ると、幸平や愛子は未だ寝ている。朝飯の用意が出来て、もう食べるばかりに膳が一つ出してある。岸本は着物を着更えて、その膳の前にむかった頃、麹屋の方で鳴く鶏の声を聞いた。

 気のせわしない母親は、四時頃から起きて釜の下をき付けたという。鍛冶橋かじばしに居る民助のもとへ弟を面会にるということが、母親には最も大切な義務のように思われていた。面会と言えば、母親は昔諸大名を自分の家に泊めた時のように暗いうちから起きる。そうしてまめまめしく立ち働くのを、不幸な家長に対しての務めとしている。未決監から届いた手紙によれば、民助の控訴は聞かれなかった。そこで彼は上告して身の明かしを立てようとしている。そのために弟にいたいとのことである。

「眠いのに、御苦労だのい」

 と母親は吾が子の為に飯をつけながら言った。

「捨さん、御苦労さま」と姉も台所から来て言葉を添えた。「今度という今度は大丈夫無罪だろうと思ったのに、控訴でも不可いけない――私はもうガッカリしてしまった。捨さんのことを考えると真実ほんとに御気の毒でならない」

「皆な無事でいるッて、そう言っておくれや」と母親が言った。

「兄さんに御逢いなすったら、何卒どうぞよろしく」と姉もした。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
  2. 常用漢字表にない漢字、当て字、異字は初出時に振り仮名を付ける。
  3. 難読語で原文を損なうおそれが少ないと思われるものについては仮名に改める。
  4. 振り仮名はブラウザによって表示が異なる。ChromeとInternet Explorerでは文字の上に振り仮名が振られる「ルビ表示」となるが、Firefoxでは文字の後に()で表示される。文字を強調する傍点は、FirefoxとInternet Explorerでは太字で表示される。
  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

この作品が収録されている電子書籍を読む

春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)