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春:百十一 (1/2)

 ブラブラして日を暮らしている幸平兄に言わせると、この家屋いえの下は――恐らく麹室こうじむろにでも成っているので有ろうとのことであった。どうも物の音が響き過ぎる。よく昼寝をする幸平はこんなことを考え出した。これは岸本も気が付かずにいた。して見ると、田舎者の声が高いばかりでもない。早速姉は母親を弁護したのである。

 霙のんだ頃、岸本は二階へ上がって、窓の戸を開けた。狭いごちゃごちゃした町中のことで、向かい側に並ぶしもた屋、仕立物の看板を懸けた家、妊婦預かり所、厚焼きせんべい、又は子供を相手にたこ、豆、駄菓子その他粗末な玩具の類をひさぐ家々などが見られる。その濡れた屋根の上に、雨降揚げ句の空を望むことが出来る。一方にはだ暗い雲があったが、神田明神の方角はすこし晴れて、黄ばんだ灰色の、影の深い横雲が遠く懸かっていた。

 午後の光は岸本の勉強部屋を薄明るく見せた。もっともひさしの浅い二階建てで、天気の好い日には逆上のぼせるほど明るかった。勉強するには、日がし過ぎる位で、そのために直にやすくも思われた。粗い灰色の壁には、父の遺筆が紙表具にして掛けてある。その隅に本箱が置いてある。岸本はその本箱の引き出しをあけて、例の懐剣を底の方にしまって置いた。

表記等について

  1. 読みやすさを優先し、原則として旧仮名遣いを新仮名遣いに改めるほか常用漢字表の新字体を使用するが、原文に文語文がある場合はそのかぎりではない。
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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)