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春:百十 (1/3)

 ねずみのように成って、岸本は大根畠の家に近づいた。みぞれにでも変わるかと思われるような、寒い、冷たい雨に打たれてたので、帽子と言わず、羽織と言わず、全身はしずくである。格子戸の内に駆け込んで庭の処に立つと、母親が直に見つけて飛んで来た。母親は岸本を後ろ向きに立たせて、乾いた手拭いで羽織を拭いてくれる。泥に成った足袋もそこへ脱ぎ捨てさせる。

「お前、足を洗わなくてもいかい」と母親は吾が子の姿を眺めながら尋ねる。

「捨さん、水をげましょうか」と姉は台所の方から声を掛けた。

 岸本は着物を脱ぎえたり、雨に濡れた顔を拭いたりしたが、さあ身体からだ蒸々むしむしする、手はほとる、額のところこからは汗が湧くように流れ落ちた。

母親おっかさん、済みませんが飲む水を下さい」

 と岸本は長火鉢の傍らに座りながら言った。母親は岸本の為に冷水をんで来た。その薄紫色の水みコップも豪奢ごうしゃな三輪時代の形見である。岸本は目のめるような汲み立ての冷たい水を舌打ちして飲んで、ようやく渇いた咽喉のどうるおした。

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  5. ITmedia 名作文庫は、散文作品(小説、随筆、評論、日記等)を主体とする。なるべく初刊本に近いものを底本に選び、全集等、先人たちの校訂を参照する。著者の死後50年を過ぎた作品群の中には、21世紀の今日の観点からみると、差別を始めとした不適切な表現ないしは同表現ととられかねない箇所が見受けられることがあるが、原文の歴史的価値を鑑みて底本どおりとする。

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春

「若菜集」「千曲川のスケッチ」「破戒」「夜明け前」などで知られる詩人・小説家の島崎藤村が1908年4月から8月まで東京朝日新聞に連載した新聞小説です。同年10月に「緑蔭叢書第弐篇」として自費出版されました。浪漫主義の雑誌『文学界』の同人たちをモデルに、明治時代中期を舞台にした青春小説です。キリスト教の洗礼を受け、恋愛や新しい芸術思想について語りあう楽しい仲間、辛い仕事と没落していく家という現実、その狭間に置かれて悩みながらも自立を図っていこうとする若者たちを、主人公の「岸本捨吉」を中心に描きます。モデルは、藤村自身が岸本捨吉、北村透谷が青木駿一、平田禿木が市川仙太、戸川秋骨が菅時三郎、馬場孤蝶が足立弓夫、星野天知と星野夕影兄弟が岡見兄弟。藤村の「若菜集」発表前夜の物語です。田山花袋の「生」と同時期に新聞連載が始まったこともあり、世間は、事実をありのままに描き真実に迫ろうとする二人の「自然主義作家」に注目しました。ITmedia 名作文庫では、(緑蔭叢書版を底本とした)「島崎藤村全集第5巻」(筑摩書房、1966年5月10日発行)を底本に、2010年の常用漢字改定に照らし合わせ、現代仮名遣いへ改めました。常用外漢字と当て字にはルビを振り読みやすくしています。(近日刊行予定)